アリストテレス哲学(論理)を突きつけられたトマス・アクィナスって、起業を突きつけられた警察官の時の自分に似ている〜史上最強の哲学入門
諸説あるようだが、あんまり細かいところは気にせずに、歴史的な背景についてはざっくりと読んで欲しい。別に歴史的な背景の正確さを書いているのではない。
12世紀の終わりの話である。西洋のキリスト教世界に、アリストテレス哲学が入ってきた。十字軍によりアラブ世界との交流ができたことが原因らしい。その頃、西洋世界で忘れられていた紀元前の古代ギリシャ哲学は、アラブ世界で生き残っていたのだ。
西洋世界では、キリスト教が勢力を誇っていた。世の中の常識、世の中の価値観、自分の人生、全てがキリスト教の教えに通りに動かされていたのではないかと思う。
そこに入ってきたのが、アリストテレス哲学だ。アラブで生き残っていたアリストテレス哲学はラテン語に訳され、西洋人でも読めるようになって、キリスト教が蔓延する世界に入ってきたのである。で、そこで有名なのが、トマス・アクィナスである。彼はアリストテレス哲学をうまくキリスト教の教義に取り込み、神学大全として理論化することに成功したのである。
というのも、なぜこのことが有名なのかというと、アリストテレス哲学とキリスト教の教義では、お互いに混じり合わないものだからだ。アリストテレスが生きていたのが紀元前の話であって、キリストが生まれるより何百年も前の話である。そのアリストテレスは、論理学を体系立てたのだ。その論理学とキリスト教の教義が、お互いに相いれないものだったのである。
それはそうだろう。キリスト教は宗教である。「本当にそうだ」というものでもないだろう。それに対して、アリストテレスの論理学は、人間の理性では「ウン、そうだね」としか言いようのないものである。論理学を使って物事を説明されてしまえば、どんなに疎い人間でも頷かざるを得ない。論理学とは、人間の理性に訴えるものだからだ。
それでもってキリスト教を説明しようとすると、どうしても矛盾が出てきてしまうのだ。例えば、「全知全能」である。「全知全能である神は、絶対に持ち上げることのできないほど重い石を作ることができるのか」という問い。この問いに対しては、「はい、できます」と答えても「いいえ、できません」と答えても、どちらの答えを持ってきても、全知全能を否定することになってしまうのだ。
「はい、できます」と答えてしまっては、「持ち上げることができない石があるんじゃん」となって、神の全知全能性が否定されてしまうし。「いいえ、できません」と答えてしまっては、「なんだ、作ることができないんじゃん」となって、全知全能性が否定されてしまう。どっちにしろ、「全知全能なんてあり得ない」という結論になってしまう。キリスト教では、神は全知全能と言っており、キリスト教の教義が、アリストテレス哲学の中の論理学を使うと、論破されてしまうのだ。この時、キリスト教世界にいた信者や神父や祭司は焦ったに違いない。というのも、それまでずっと、代々語り継がれてきて、近所でもそう教えられてきたキリスト教が、論理学を持って説明されると疑問のつくものになってしまうからである。「当たり前」だと思っていたものが、「常識だと」言われて疑うことすらしていなかったものが、ただ理性に訴えられた説明をされただけで、覆ってしまうのだ。
これというのは、私が警察を辞めて、起業への道を志した状況に似ていると思うのだ。おそらくキリスト教というのも、三角形の巨大なピラミッド組織だったはずである。そのピラミッドの中では、独自の世界や独特の価値観が形成されていた。上の人間が「こうだ」と言えば、下の人間は「そうだ」と言って疑わなかった。「本当にそうなのか」とか「違うんじゃないか」という疑いの目を持たずに、言われたことをそのまま信じていたのだ。信者が、神父が、祭司が、キリスト教を信じるように、警察官も、組織の中で正しいと言われることをそのまま鵜呑みにしていたのである。「仕事とはこうあるべきだ」「正義とはこうあるべきだ」「警察とはこうあるべきだ」とか。「こうすれば世の中は良くなる」「こうすることが社会のためなのだ」「治安を守るとは、こういうことなのだ」とか。そんな、組織の中で言われていたことを、警察官時代の自分は、そのまま自分の中に取り込んでいたのである。
けれど、起業というものを突きつけられて、私の見る目が変わったのだ。起業というのは、何も難しいことを問いてきたのではない。簡単な、よくよく考えれば当たり前のことだ。ただ、それらがアリストテレス哲学のように、論理を伴って問われたので、人間としての理性に訴えられたのだ。
「人生は楽しい方がいいんじゃない?」
「モヤモヤよりもワクワクの方がいいんじゃない?」
「楽しいことを仕事にすれば、人生も充実したものになるんじゃない?」
どれも難しいことではないだろう。非常に簡単で、シンプルな問いだ。それだけに、理性に訴えるものだったのだ。
逆に言えば、組織の中では、それだけ周りから影響を受けていたと言っていい。中世の西洋世界でも、キリスト教は、疑うことを許されず、疑っている余裕などないように蔓延していたのではないか。力を持った人間、権力を持った人間、知識のある人間から「こうだ」と言われ、力のない人間、権力のない人間、知識のない人間は、いつの間にかそれらの教義が体や頭に染み付いてしまったのだ。そして、いつしかそれに対して一部の疑問すら持つ余裕をも無くしてしまったのだ。
でも、そんな閉じられた教義の世界から、解き放ってくれたのが、起業というものだった。理性に訴える単純な問いを問うてくれたのだ。私は、この問いに「ウン」と頷くしかなかった。だって、どう考えても警察組織の教義よりも的を射ているように考えられたからだ。おそらく、人間であれば誰もが頷かざるを得ないほど、本質を捉えた問いだったのだ。だから私は、それまで自分の常識だった、警察の中の教義から離れ、広い世界を見る目を持つことができたのだ。起業を志すことができたのだ。
「人生は楽しい方がいいんじゃないか?」
「楽しいことを仕事にできれば、これほど充実することはないんじゃないか?」
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