本音と建前はどのように生まれるのか

2016.10.29 (土)

20年弱を宮城県で過ごしました。根っからの宮城県人です。今は関東に住んでいますが、魂だけは置いてきたつもりです。

 

大津波なんて誰も予見できません。それはどこに住んでいようと同じです。海沿いでも内陸でも東北でも関東でも。

 

学校に通っていた時、何度も避難訓練をした記憶があります。机の下に隠れて、その後、上履きのまま校庭に走って…。

 

避難訓練はしていましたが、誰も本当に大地震や津波が来て、自分たちが被災するなんて思っていませんでした。児童も先生も保護者も地域住民も。被災することなく過ごすことが前提の生活だったはずです。震災の前、誰の頭にも大津波による被災なんて無かったはずです。

 

震災など、あまりにもリスクを意識しすぎると生活が不便でなりません。口では「リスクに備えよ」と言って、書類には「危機管理」なんて書きますが、どんな災害にも対応できるように備えた生活なんて、不便でならないし、そんなものは望んでいないはずです。

 

「行政だから」とか「学校だから」とか、途端に求めるものが大きくなります。行政や学校もそれに応えるのが当たり前だと思っているのか、できないことまで「重く受け止める」なんていうものだから、本音と建前が生まれるんです。

 

できないものはハッキリとできないとした方がいい。建前で「できる」なんて言わなければならない学校や行政は考えを改めた方がいいし、「できる」ことを求める社会にも問題があります。

 

震災前の宮城県では、大震災への備えが確かに十分ではなかったと思います。でもそれは万人がそうだったはずです。誰かが誰かを責められるものではありません。

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