再婚ですが、妻の連れ子のシツケで悩んでいます
小学校3年生の男の子が、なんにも一人でできなくて堪り兼ねる、とのこと。
私はシツケと称して、何かを子どもに強制させることに違和感を感じます。もちろん、何から何まで子どもに自由にさせることを推奨しているのではありません。ただ、何かを強制することは子どもにとっても誰にとってもストレスでしか無く、もしもそれが「こうなってほしい」という人としての最低限の道徳なのであれば、苦労なく子どもは受け入れているはずだと思うのです。
お父さんとしては、子どもの姿を見て「シツケがなっていない」と思うのでしょうが、そのシツケが、お父さん自身の偏見によるものだったり色眼鏡によるもの、という可能性は拭いきれないのです。まだ男の子は3年生ですし、大目に見てやってはいかがでしょうか。「オレは子どもの頃、このくらいは一人でしていた」とは思っているのでしょうが、子どもの頃の記憶は正確ではない上に、幾分か自分の都合のいいように着色されているものです。自分としては「できていた」と思っていても、現実はできていなかったとか。「小学校3年生でできていた」と思っていたものが、実は小学校5年生になってからだった、とか。
私は、子どもに対して過度に何かを強制することが、子どもの可能性を潰してしまうことになるのでは心配なのです。「シツケ」という言葉を使っているところも気になります。「シツケ」というと、親としてやらなければいけないことのような、「ある程度の強制が許される」「怒ってもいい」のような特許のような響きがあります。自分の子どもに対する強制を正当化している感じがします。会社でパワハラを疑われている上司が「これはパワハラでは無く、『指導』だ」というのと、同じ響きがあります。
「親子関係ができるまで待ったほうがいいのでしょうか」ともありますが、「親子関係ができていればいい」とか「親子関係ができていないからダメ」とか、そういうものでもありません。「たとえ本当の親子であっても」です。別にシツケができていなくてもいいじゃないか、ということです。親が子どもに対して強制できるものは、ハッキリ言ってしまえば、何一つ無いはずですから。
もしも「それでは子どもが不幸になってしまう」「子どもが可愛そうだ」と思っているのであれば、それこそが、親の思い込みでしか無いでしょう。というのも、「自由にした結果が不幸であるかどうか」を決めるのは、親ではなく、子ども自身だからです。
子どもに対して一生懸命なのは分かるのですが、一生懸命であるならば、本当に子どもの幸せや子どもの人生を思うのであれば、「シツケ」と称して子どもの人生を縛るのを控えたほうが良いと思うのです。
放っておけば良いんです。するようにさせて、したいようにさせればいいんです。それでどういう人生を歩もうが、それは子ども自身の人生ですから。親も子どもも独立した存在ですから。
私たちが子どもの頃は、親からシツケを受けるのが当たり前でした。親は子どもをしつけるのが当たり前だし、子どもは親の言うことを聞くのが当たり前でした。が、そのしわ寄せが、なかなか人生の舵を自分でとることができない大人たちです。自分でなく、他の人の言うことばかりを聞いて、自分で決定すること無く、自分で前に出ること無く、自分で責任をとることもない、主体性のない大人たちが出来上がったのです。
確かに社会と言う頼れる大きな船があったのならそれでも通用したのかもしれませんが、もはや頼れる大きな船はありません。良い大学に入ったとしても、大きな会社にはいったとしても、収入がある程度見込めるようになったとしても、幸せは手に入らないのは、多くの人が徐々に気づいています。人生における幸せ、満足感、喜びは、良い大学、大きな会社、ある程度の収入、とは別のところにあるからです。
じゃあどこに、人生における幸せ、満足感、喜びがあるのかというと、それは自分で主体性を持って生きることにあるのではないか、と思います。自分でハンドルを握る人生です。自分で行き先を決めて、自分で運転して、たとえ目的地に着けなかったとしても自分で責任をとる、そんな生き方です。
そのためには、子どもの頃からの自分で主体性をもって生きるという経験の積み重ねが大事になります。大人になってからいきなり身につけようとしても、急に身に着けられるものではありません。子どものころから、自分で決めて自分で行動して自分で責任を持つことの繰り返しが必要なのです。
そのためには、大人の協力、とりわけ親の協力も必要になります。子どもに対して、自分で決めて自分で行動して自分で責任をとる環境を提供できるのは、親だからです。
もうお分かりだと思いますが、主体的に生きる経験を積み重ねる上でハードルになるのが、親からの強制です。これは、大抵、「シツケ」と称された善意の形をもって、子どもを縛り付けます。親からすれば「お前のために言ってやっているんだ」「お前のためにやっているんだ」ということなのですが、それこそが、子どもか主体性を奪う一番の原因なのです。親は、「シツケ」と称して強制している、その偏見、思い込み、色眼鏡に気づくべきなのです。
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