まさかの「お手上げ」というディストピア〜沈黙

2020.11.02 (月)

 

なんということ!

 

 

これでは……これでは負けたも同然ではないか。というか、実際に負けてしまったのだろう。沈黙は最後まで破られることはなかった。神は黙したまま、ついに一言も話さなかった。取り調べの際の「黙して語らず」とはまさにこのこと。

 

 

9割ほど読んだところで

「私は沈黙してたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

なんて書かれていたけれど、これがなんの救いになるのだろう。この手の表面的な解答が救いでないことはさんざん、本書の中で言われてきたことだ。海に沈められて苦しむ民。食べるものがなくて苦しむ民。信仰のために役人に見つかるのではないかと怯える民。その民たちは、見上げるような目でデウスを見ていた。自分たちを助けてほしいと。

 

 

その度に、祭司は答えにならない答えを出していた。「天国に行けば現世の苦しみから解放されるから」みたいな。それは当たり前だ。死ねば意識がなくなるので苦しむこともない。

 

 

それと同じだ。「私は沈黙してたのではない。一緒に苦しんでいたのに」なんてのは、何の解答にも鳴っていない。

 

 

苦しむ民と一緒に苦しんだからといって、何の意味があるのだろう。実際に苦しみが癒やされるわけではないではないか。結局は苦しみが続くことに変わりはない。痛み、飢え、疲れ。そんな苦しみが実際に救われるのでなければ、いくら一緒に苦しんだからといって、それでは沈黙したままと一緒だ。

 

 

本書のタイトル「沈黙」を、僕は勘違いして読み始めた。祭司が日本で役人から隠れるように暮らす生活を「沈黙」だと思ったのだ。大きな声を上げて存在を知られてしまえば、捕らえられてしまう。捕まって拷問にあってしまう。だから声を沈め、音を立てないように、まるで無機物のようにひっそりと暮らさなければならない生活。音を立てない生活の苦しさを表現するから「沈黙」だと思ったのだ。

 

 

昔、たしか中学校の時に社会科の先生にこの本を勧められた記憶がある。僕の記憶違い、あるいは勘違いかもしれないけれど、その先生も「隠れるように潜むキリシタンを描いた」のような表現を使って、この「沈黙」を紹介していた。

 

 

けど、この「沈黙」とは、キリスト教迫害の進む日本で隠れるように信仰を守るキリシタンを意味するものではなかった。そうではなく、「神がいつまでたっても、苦しむ民に対して沈黙している」という意味での沈黙だったのだ。まるで難しい問題を前にいつまでも答えを出せないでいるかのように。

 

 

キリスト教信仰を理由に苦しめられる人たちを前に、いつまでも沈黙を守る神。救いらしい救いをせず、祈る彼らの言葉を無視し続ける神。祈る声、求める祈り、嗚咽する叫び。それらに対するひたすらに救いが訪れないことの静けさなのだ。

 

 

しかも、最後は神への信仰を捨てて、主人公である祭司が「転がって」帰結する。神がお奉行の迫害に負けてしまった。どうしようもないディストピアである。

 

 

答えは出されていない。

 

 

おそらく今も、全世界に何万人いる教徒が考えているのだろう。祈ることでは救われない。信じているからといって状況が転じるわけではない。よく生きても悪く生きても関係なく世界は回る。それでもどうして神を信じなくてはならないのか。

 

 

実際に救われるわけはない。貧乏が裕福になるわけでもない。死んだ人間が生き返えったり、病気で苦しんでいる人間が治るわけでもない。なのにどうして神を信じなくてはならないのか。それでも神を信じるとはどういうことか。それでも信じなければならない理由は何なのか。

 

 

そんな刃のような問いが、小説全体をとおして読者に突きつけられている。

 

 

もう一つ、この小説の面白みは、キリスト教信者の内面をうまく描写していることである。

 

 

僕は日本人からかもしれないけれど、イエスを信じる西洋人の気持ちがわからない。おそらく土壌の違い、文化の違いなのだろう。彼らの信仰の内面を僕たちはなかなか想像できないでいる。

 

 

けれど、この小説を読むことによって、その一端をうかがい知ることができる。もちろん、信徒にも色々いるし千差万別ではあるだろう。けれど、その中でも強烈でわかり易いものを僕たち読者に、この小説は示してくれている。

 

 

キリスト教信者の内面。それは、イエスの経験を追体験することだ。

 

 

なるほど、この世のものとは思えないほどむごたらしい責めを受けたイエスを追体験することに喜びを見い出せれば、責めをも耐えることができる。うまくできている。

 

 

町中を引きずり回されても、ゲッセマネを歩いているときのイエスを思い浮かべて「あの人もこんな気持だったのだろうか」と考えて癒やされる。

 

 

柱に貼り付けられているときも、十字架に貼り付けられたイエスを想像して「あの人だって同じ状況を経験したのだから」と痛みを和らげる。

 

 

味方だと思っていた者に裏切られても、ユダに裏切られたイエスを思い浮かべて「あの人も裏切られているし」と自分がイエスと同じ経験をして、さも自分がイエスに近づいているかのような気分を得る。

 

 

イエスの経験を追体験することによって、「あの人も経験したのだから」と考え、そのことによって自分がイエスに近づく高揚感を感じる。だから、もうすでにイエスがとてつもない拷問や責めの果てに亡くなっている以上、信徒はどんな責めにも耐えることができる。どんな拷問にもある種の達成感を得ることができる。という寸法になる。よくできている。

 

 

「沈黙」は面白かった。あるウェブページでは日本の文学作品最高峰の1つにあげられていた。それだけに「自分にもわかるのだろうか」「最後まで読めるのだろうか」と不安だったけれど、あっという間に読み終えてしまった。

 

 

レビューを書くのも、「読後ではなくて読んでいる最中に書こう」と思っていたけれど、ついついストーリーが気になって、最後まで読んでからレビューを書いてしまった。

 

 

地上にいる日本のキリシタンや祭司、彼らが苦しみの果てに拝むように見上げる空。その空から彼らの上にのしかかる、お手上げような沈黙。僕なんかではこの小説の美しさはとても語れない。ただただ、面白かった。

 

 


 

 

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