世界は人それぞれではないのかもしれない
常々言っているのだが、優しさには「価値観が人それぞれだ」と考えが必要だ。社会から犯罪や非行を無くすには、優しさというのを社会に広めることが必要なのだが、その際に都合が良いのが、「価値観は人それぞれ」だと考えることである。というのも極論を言うと、「優しくない」とは、自分の価値観を相手に押し付けることである。自分の価値観、自分の考え、自分の世界観を、相手にも適用しようとしてしまう。そのときに上手く合致すれば良いのだが、合致するケースばかりではない。合致しないケースもあるのだ。が、それとは気づかずに、知らずしらずのうちに、自分の偏見の中に相手をも巻き込もうとしてしまう。
そんなときには、価値観とは人それぞれであることを考えれば、相手に押し付けることも少なくなるのではないだろうか。何が大事なのか、何が必要なのか、どうすればいいのか。そんなものは人それぞれだと考えるのだ。自分と相手が見ているせかいは同じではない。同じではないなら、目指すもの、大事にするもの、得たいものも、同じであるはずがない。ゆえに「相手のためを思って」は不要である。相手に対して優しくない人は、「それが相手にとっても良いものだ」とか「社会にとっても良いものだ」と思っていて、「相手はそれに気づいていないが、自分は気づいている。」と思っている。だから自分の考えを押し付けるものなのだ。
……とまあ、こんな事を考えているのだが、どうやらこれも正解ではないかもしれないことに最近、気づいたのだ。私が「人それぞれ」だと思ってみている世界は、人それぞれではないのかもしれない。自分がいて、相手がいて、自分以外の人がいて、いろいろな人が世界にいるように見えるが、価値観は、一人ひとりの人間が別々に持っているのではないかもしれないのだ。
というのも、この「価値観は人それぞれ」という考えは、最近出てきたものらしいのだ。20世紀になって主流になった考えらしいのだ。それまでは、人々は「価値観は人それぞれ」であるという考えに至っていなかったのだ。これはとても不思議なことではないだろうか。だって、どう考えても、どう世の中を見ても、価値観は人それぞれのように思える。目の前にいる、自分とは違う人間が、自分と同じ考えを持っているなんて、とてもとても考えられないだろう。目の前にいる、自分とは別の人間が、自分とまったく同じ方向性を持って人生を生きているなんて、とてもとても考えられないだろう。
我々は、価値観が人それぞれであることが人類普遍の価値観であって、唯一無二の根底にあるもののように考えがちなのであるが、つい100年ほど前までは、この当たり前のように思えることに、ほとんどの人が気づいていなかったのである。何千年という人類の歴史の中で、人それぞれという考えは、ごくごく最近のことでしかないのだ。
これは、構造主義という種類の思想が広がる中で出てきたらしい。それまでヨーロッパでは、未開の、例えばアマゾンの奥地に住む部族に対して、「遅れている」という考えを持っていた。時間が経てば彼らもいずれは自分たちのように、文化を発達させることができるだろうと考えていたのだ。が、その考えが、レヴィ・ストロースによって「そうではない」と思えるものになってきたのだ。未開の人たちは遅れているのではなく、自分たちとは違う価値観を生きてるだけなのだ。だから、彼らもいずれ、自分たちの今と同じ段階にいずれ達するだろう。で、その時に自分たちはもっと上に至っていなくてはならない、というのは間違いで、ただただスタンスの違い、価値観の違い、考え方の違いでしかないと気づいたのだ。「もしかして価値観って人それぞれなの?」「もしかして目指しているものって、人それぞれ違うの?」「もしかして考えって、人それぞれ違うの?」である。
今現在は、この「人それぞれ」という考えが主流になって、世の中の人の多くにこの価値観が広がったのだが、その「人それぞれ」という価値観が正解かどうかは、また別問題である。というのも、最近の話でしかないからである。
私が思うのは、思想の怖さ、思想の偉大さである。「こんなことから覆すの?」という感じではないだろうか。どう考えても、価値観が人それぞれでない世界など想像できないし、考えが人それぞれでない世界など想像できない。なのに、人間といのは、人それぞれでない世界でこれまでずっと生活してきたのだ。人それぞれであるということに気づかない世界で、多くの人がこれまで生活してきたのである。人それぞれということに気づかなくても、社会はうまく回ってきているのである。
人それぞれだと思うことは、寛容的になったり、相手に優しく接したりする際に有効であるが、世界が本当に人それぞれであるかどうかはわからないのだ。人それぞれだと思っているのは、所詮は思想の流れであり、トレンドでしかないのだ。
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思いやりってけっこう、掴みどころのないものだと思うんですよ。昔から「思いやりを持ちなさい」とか「思いやりが大事です」なんて周りから言われることは多いと思いますが、「それって何なの?」と聞かれた場合や、「それってどういうこと?」と深く知ろうとした場合、それと「どうやって持つことができるの?」となった場合に、うまく答えられないと思うんです。
そこで、一つの具体案として、「スナイパーのようなものだと」というのを示したいと思います。スナイパーとは、遠くから銃で相手を狙う、狙撃です。思いやりとは、スナイパーのようなものなのです。もちろん、思いやりっていうのは頭の中のことなので、実際に銃なり狙撃なりはしませんが、遠くから狙うすスナイパーと思いやりっていうのは、似ています。
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