子どもの非行を防ぐ鉄則! 鍋料理のように世の中を見る

2019.12.16 (月)

料理を作っているところを思い出してほしい。

 

 

今、目の前に鍋がグツグツと煮立っており、この鍋に具材を入れようとしている。入れるものは、人参、ごぼう、醤油、料理酒、みりん、である。まずはじめに人参を入れたとする。人参は、鍋の中で形が崩れるだろうか。おそらく崩れないだろう。人参を入れたところで、人参は固いので、人参は人参のままである。ごぼうは、鍋の中で形が崩れるだろうか。おそらくくずれないだろう。ごぼうも形がしっかりとしているので、ごぼうを入れてもごぼうのままである。

 

 

では醤油、料理酒、みりんはどうか。もちろん、これらのものを入れれば、醤油、料理酒、みりん、それぞれの形はなくなるだろう。醤油は鍋の中にすでにあったものと混ざり、形はなくなってしまう。料理酒もみりんもそうである。

 

 

子どもの非行を無くすには寛容さが必要なのだが、寛容さとは、世の中をフラットに見ることで生まれる。自分と特殊視したり、自分や自分のいる環境を「特別だ」と思っていたのでは、寛容さは生まれない。寛容さを育むには、頭を柔らかくもつことである。柔らかいものは混ざりやすく、それに対して固いものは混ざりにくい。頭を柔らかくして物事を見ることで、柔軟な考え、柔軟なものの見方、柔軟な姿勢を持つことができるのだ。

 

 

柔らかくして物事を見るとはどういうことか。抽象的に物事をみるのである。よく私たちは、「具体的」であることを求められる。具体的な意見、具体的な対策、具体的な方法。なんでもかんでも具体的であればいいかのような言われ方だ。こんなに具体的なものを求められると、「具体的が善」で、それに対する「抽象的が悪」のように思えてこないだろうか。そうではないのである。決して具体的が善ではないし、抽象的が悪ではないのだ。具体的な見方だけでは生活していけないし、抽象的なものの見方がない方がいいのかというと、そうでもない。両方必要なのだ。右と左の両方が必要なように、熱さと寒さの両方が必要なように、具体と抽象の両方が必要なのだ。

 

 

具体とは、表面的なのだ。決して具体的な見方でそのものの本質を表すことはできない。というのも、本質とは抽象的だからだ。たとえば、憧れの芸能人がいたとしよう。その芸能人に近づきたいとして、色々とその芸能人を真似ようとする。コーヒーをよく飲むと聞けば、コーヒーをよく飲むようになり。「こんな服装をよくしている」と聞けば、同じような服装をするようにする。だが、そんな具体的な物を真似たとして、あこがれの芸能人に近づくことができるだろうか。趣味や、着ているものや、その他にも住んでいるところなんかを真似たとして、その芸能人に近づく事ができるだろうか。できないだろう。そんなものを真似たところで、憧れの人物にはなれない。というのも、簡単には真似ることができない、抽象的な部分を真似なければ、その人にはなれないからである。

 

 

 

その芸能人のどんなところにあこがれるのか。それは、趣味でも着ている洋服でも、そんな具体的なものではないだろう。ちょっとした仕草とか、意識すらしていないような話す時のクセとか、持っている雰囲気とか。そんな抽象的なものにあこがれるのだろう。そんな抽象的な物を真似なければ、その芸能人には決してなることはできないのである。

 

 

この抽象に気づく能力、抽象的に世の中を見る視点が、優しさには必要なのだ。抽象的な視点とは、世の中をフラットに見る能力である。フラットであることに気づく能力、とも言える。なので、世の中にある沢山のものを、まとめて一つのものとして見ることができるかどうかである。よのなかにある沢山のものに共通するものをみつけることができるかどうかである。

 

 

秋田犬、ブルドッグ、チワワ。具体的に見ればどれも別の生き物であるが、抽象的に見れば、要は「イヌ」なのである。クロマグロ、ハクトウワシ、桜の木。抽象的に見れば、どれも要は「生き物」なのである。

 

 

細かい所を見ず、大雑把に物事をとらえれば、どれも同じである。仕事では、自身をつけることが大切だ。小さな成功を積み重ねることが必要なのである。だがだからといって、失敗が必要ないのかと言えばそうではない。仕事の失敗も、長い目で見れば自身の成長に欠かせない要因になっているかもしれない。そういう意味では、仕事で失敗しようが成功しようが、どちらも変わりはない。結果がたまたま失敗に転がるか成功に転がるかの違いであって、その反対にあるのは「何もしない」ということだろう。そう考えると、仕事で失敗した部下を叱ったり怒ったりする事に必要性は感じなくなる。仕事ができないからとイライラしたり、感情的になったり。そんな人は、失敗の裏側にある成功を見えていないのであって、視野が狭いだけなのである。具体に囚われているのだ。

 

 

非行や犯罪を防ぐには、優しさや寛容さが必要である。優しさや寛容さを育むには、グツグツ煮立ってドロドロになった鍋のように、世の中を抽象的に見られるかどうか、である。それは、一つ一つの具体的な事象を、「どれも変わらない」「どれも同じだ」と見られるかどうかであり。それというのは、それぞれの事象をまとめられる共通性に気付けるかどうか、なのである。

 

 

 

 


 

 

 

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