路上でもっとも使える技は投げ。それは、人はひと目を気にするからだ

2020.08.26 (水)

僕は格闘技が好きで、格闘技の試合も見るし、それ以上に格闘技マンガも読む。

 

 

格闘技マンガの中で一番好きなのはグラップラー刃牙で、板垣先生のマンガには、普遍を感じる哲学が流れているように思えるからだ。今パッと思いついた刃牙に出てくる一番好きな概念は、「男は皆んな世界一を夢見る。故にスポーツや勉強など、他のあらゆる争いは格闘技の代替えでしか無い」というもの。

 

 

格闘技は原始的であって、それだけに純粋だ。格闘技に比べて、サッカーやバスケなどのスポーツは接触を禁じているものが多く、どこか過度に健全さに偏りすぎている。さらに勉強などは知識の高さを競うもので、お高く止まっている。そんな過度な健全さや、お高く止まっている感などの不純物を取り除くと、どうしても競争とは格闘技に行き着くのだ。

 

 

羞恥心、世間体、面子、体裁、品位、そんな余計なチリを取り除いた純粋な争いが、格闘技なのだと思う。

 

 

格闘技は、「いかにリアルを再現するか」がその根底に流れている。格闘技といえど、本番の模擬試合。本番で負けてしまわないように、模擬でもって鍛えておく。それが格闘技だ。故に格闘技とは本番の予行訓練でしかない。

 

 

本番とは実生活で行われる争いごとだ。家庭内での争い、学校での争い、職場での争い。それが実生活の争いであって、その代表格は、路上での争いだと思われる。個々人による特殊性が一番少なく、誰にでも起こりうる。普遍という意味では、路上が実生活での争いごとの代表格だ。

 

 

では、その路上で一番使える技は何か。これは格闘技マンガで頻繁に問われてきた問いでもある。あるマンガでは「打撃だ」といいい、あるマンガでは「グラップリングだ」といい、「空手だ」「レスリングだ」と様々な意見を机の上に出させてきた。

 

 

これに対して、僕は「それは『投げ』である」と言いたい。警察官をやる中で多くのケンカの現場に立ち会ってきた僕の答えである。路上で一番使える技は、投げ技なのだ。

 

 

どうしてか。

 

 

それは路上では、ひと目があるからである。路上にはひと目が注がれるから、そこで一番使える技は「投げ」になるのだ。

 

 

グラップラー刃牙は今、相撲に軸足を置いてストーリーが展開してるが、刃牙の作者である板垣先生でもまだ気づいていないのではないかと思う。マンガの中でそのことに触れられている場面がない。

 

 

格闘技における試合と路上との一番の違いは、「ひと目があるかどうか」だと僕は考えている。

 

 

試合にはひと目がない。もちろん周りに観衆はいるのかもしれない。試合を見ている数多くの目線はあるのかもしれない。けれどその観衆がいるからといって、試合をしている者が技を出すことに恥ずかしさを感じることはないだろう。

 

 

観衆は、格闘技を見ているのであって、「応援している側が試合に勝ってほしい」と思って見ている。そんな目線が注がれる中で、「勝とう」とか、「相手をのしてやろう」と思って自分が持っているベストの動きをしたところで、一番の技を出したところで、誰も好奇の目を注ぐ人はいないだろう。むしろ、ベストの動きをすれば応援してくれるはずだ。試合をする側は、ベストの動きをすることになんの躊躇もない。

 

 

だが路上は逆だ。争っている人間は、ベストの動きをすることに躊躇してしまう。というのも、ひと目があるからだ。試合での観衆とは違う。まったく異質な観衆。まったく異質な好奇の視線。試合を見て応援してる視線とは違う、なにか珍しい珍獣でも見るかのような馬鹿にした視線。路上とは、こんな馬鹿にしているような視線が集まる中で争わねばならないのだ。

 

 

夜に繁華街を歩いている時、向こう側から同じように歩いてきた人と肩がぶつかって争いになった場面を想像してほしい。普通に歩いている時は誰も目を向けなかったのに、争い始めた瞬間、そこの空気は周りと違ったものになる。

 

 

多くの人が争うことなく歩いている中にできた、「対峙している二人がいる」という異質な空間。周りの人にとっては、珍しいものを見られるチャンスである。動物園に来て、いつも寝ているオスライオンどうしがたまたまケンカしている場面に出くわしたときのように、「面白そうだな」という気持ちで多くの人が視線を向ける。

 

 

視線が視線を呼び、人が人を読んで、ギャラリーの数は増える。注がれる好奇の視線は大きくなる。路上での争いとは、こんな動物園のオリのような中でやらなければならない。

 

 

考えてほしい。こんな好奇の視線が注がれる中で、打撃や寝技をできるだろうか。自分はボクシングをやっていたからといって、自分はブラジリアン柔術の経験があるからといって、そんな得意なことをできるだろうか。経験者であれば経験者であるほど、それはできなくなるだろう。

 

 

半身に構えて、前のめりになって、腕を前に出して‥。そんな、いかにも「これから格闘技をやります。自分は格闘技経験者です」のような格好はできないのではないだろうか。というか、できない。

 

 

人は視線、特に好奇な目で見られる視線を気にする生き物だからだ。一生懸命な自分を見せることを、はばかる生き物である。願わくば、余裕のあるところを見せたい生き物である。できれば、鼻で「フン」と笑って、「お前なんか相手にしねーよ」と上段から冷めた目で見下したい生き物である。

 

 

路上でガチになるわけにはいかないのだ。格闘技経験者だからって、格闘技を見せびらかすわけにはいかないのだ。グラップラー刃牙のように、路上で奥目もなくケンカなどできないのだ。本気になっている自分を周りに見せるわけにはいかない。「ガキの相手なんかしてらんない。自分は大人なのだ」という「相手にしてねーよ」的な雰囲気を出さなければならない。路上とは、そういうしがらみの中で相手に勝たねばならないのだ。

 

 

だったら「はじめから争わなければいいじゃん」と思う人もいるかも知れないけれど、同時に「相手を痛めつけてやりたい」「俺の強さを周りに見せてやりたい」とも思うのが人間である。「本気になって相手にしたくない」「けど俺の強さで痛めつけてやりたい」というアンビバレンスだ。相反する気持ちが同時にあるのが男という生物なのだ。

 

 

こんなアンビバレンスな気持ちの中で一番使えるのが、投げである。

 

 

相手を殴ったり蹴ったりしようすれば、どうしても構えなくてはならない。けど半身になったり前かがみになって構えてしまえば、周りに自分が「ガチだ」という内心がバレてしまう。それは避けたい。「オレは相手にしねーよ」と、スマートに勝ちを宣告したいものだ。

 

 

しかも、パンチをしようと腕を振ったからといって、それが確実に致命傷として相手に当たるとも限らない。相手によけられてしまえば、「空振り」というもっとも恥ずべき自体が待っている。ガチにパンチを出した上に空振りでは、好奇の視線の中では耐えられない。

 

 

寝技はどうか。いや、路上で寝てしまっては、打撃以上に「ガチだ」と思われてしまう。だいたい路上は本来、歩くものであって、お尻や背中をつくものではない。そんないかにも「自分は寝技経験者です」的なことをすれば「お、何やってのアレ」と周りから思われ、余計に視線を注がれてしまう。そんな恥ずかしいことはできない。

 

 

だから、投げなのである。打撃や寝技よりもスマートに、相手をのすことができる。そもそも路上の争いにおいて、完全決着の基準はない。戦国時代であれば生殺与奪の権利があったのかもしれないけれど、ここは現代日本である。相手に身体的ダメージを与えては法的に負けてしまう。決着は曖昧であることが多い。

 

 

つまり路上において勝者とは、相手に精神的なダメージを与えた側なのだ。相手に自分の強さを見せつけて、それですぐに争いをやめてしまう。お互いが熱くなっているうちに相手をのしてしまって、後は相手が動けようとも相手にしない冷めた態度をとる。そんな確実な先手必勝が要求される。

 

 

そうするとやはり、投げである。投げが決まると、相手は路上に倒れることになる。自分は立っている、あるいは上になっている。相手は路上に横になっている、あるいは自分よりも下にいる。であれば、周りのギャラリーからは立っている、あるいは上にいる者が勝者だと見られやすい。戦国時代ではない、現代日本の決着に合致している。

 

 

投げというのは、投げられた側の精神的なダメージも大きい。大して身体的ダメージがないにも関わらず、「投げられた」という現実は自分の「やられた感」を演出する。頭から落とされたのでなければ、身体的ダメージはそれほどでもない。けれど、「ひっくり返された」「転がされた」という事実は、恥ずかしさによる「やられた感」をつむぎ出すのだ。

 

 

この決着の場面でも、視線が大きな影響を与えることにあなる。当人たちには関係のない、周りから見て「どっちが勝ってそう」「どっちが負けている」というのが、争っている本人たちの気にするところになる。身体的ダメージが無くても、自分としては「まだ動ける」と思っても、まだ争いの途中だと感じていても、周りの人間が「あの人、負けちゃったね」とか「あの人、やられてるね」と思われたら、そこで決着なのだ。

 

 

グラップラー刃牙では、「生殺与奪の権利」とか「勝敗時の視線の高さ」が決着の基準、なんていう言い方をしていたけれど、そうではない。決着の基準は、周りの視線なのである。

 

 

人はひと目を気にする生き物であって、それは路上の争いにおいても例外ではない。むしろ路上の争いという、本気さを必要とされる場面だからこそ、「スマートに勝ちたい」という感情が出てくる。路上でもっとも使える技は、「投げ」なのだ。

 

 


 

 

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