おかげで般若心境が好きになりました〜史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち
内容としては、古代インド仏教と諸子百家と日本の仏教の総おさらいって感じです。でも内容が濃かった。特に、古代インド哲学の説明のところ。難解で的を絞りきれないような内容なんでしょう。本物は。それを、バキテイストを入れつつ説明してくれました。
著者も言っているように、東洋哲学には色々な解釈があるのだと思います。色々な人がそれぞれの解釈をしている。もう2500年ほども昔に生きていた人の話だし、その人の話自体が抽象的だったのだと思います。それを2500年も後の我々が「あーだこーだ」という事なので、話の解釈に幅が出てきてしょうがないのだと思います。
そこが神秘的な部分なのだと思います。西洋と違って、東洋の思想には混沌とした雰囲気があります。掴めないというか、納得しきれないというか。悪く言えばうさん臭い。よく言えば神秘的。それがいわゆる「東洋的」なんでしょう。そんな理屈では説明しきれないもの、言葉では言い表せないもの、うまく表現できないものが東洋の魅力です。
徐々に階段を登っていくイメージではありまんね。一つ一つを理解してこなしていくイメージではありません、この東洋哲学を学ぶということは。いろんな解釈本が出ていることだと思うので、自分に合う、自分で「これだ」と思うような解釈に出会うまで探すことになりそうです。
般若心境が、特にページを割かれて説明されていました。これまで般若心経を聞く機会はいくつかあったんです。お葬式の時でしたけど。親族が死んだ時のお葬式に参加して、その時にお経を聞いていました。気にはなっていましたね。
死んだ時に歌う、この歌は何なのか。死んだ人に送る意味なのか。それとも死んだ人を見送る悲しい気持ちになっているこっち側の人間に対しての内容なのか。日本全国ほとんどでこのお経を挙げているけれど、そこまで普及しているからには、何かいい内容なのだろうか。人が死ぬっていう非日常時に歌う歌とは、どんな内容なのだろうか。お坊さんが何人もいて、お寺っていう大層な建物の中でこれだけの設備と環境でみんなが同じ内容を歌っている。この漢字の羅列にはなんて書いてあるのか。
その内容を明らかにされて、ホッとした感じです。なるほど。確かに不安や悲しみを取り除くような内容にはなっていますね。私の解釈ですけれど、溶けていくイメージでしょうか。大きな視点で見ると、何もかも一緒だから、悲しむこと自体が無意味だよ。悲しむ必要なんか無いんだよ。だって全てが一つなのだから。何もかも一つだから、死ぬってこともないし、生きるってこともないし。世の中にあると思う境界なんてないんだよ、と。
この境界っていうのがダメなんだよ。土地と土地の間に境界を引いたり。人間の行動にやってダメなこととやてもいいことの区別をつけたりして。本来、境界がないところにまで無理に境界を引いている。そんなに細かく世の中を見てもしょうがないじゃない。本来ないところにまで境界を作るようなものの見方をしていたら、囚われてしまうよ。具体に囚われてしまう。目に見える、現実に触れる、実際に聞こえる、そんな具体に囚われてしまうよ。考えてみなよ。そもそも全ては一緒だぜ? 境界なんて無いんだよ。土地と土地の境界とか、人間に行動に制限をつける法律とか、そればっかりがダメだと言っているのでは無い。
目で見て、耳で聞いて、感覚で触って、鼻で嗅いで、口で味わって、そんな風にそこに感じられるものも全てが実態の無いものであって、無いんだよ。否定しな! 無い! 否! 全ては一緒なんだ。天地に存在する全てが同じで、一緒で、区別もないし、境界も無いんだよ。目の前にテーブルがあって、その上には料理が並んでいて、外では車が走っていて・・。そんな目に見えるもの、耳で聞こえるもの、全てが無いんだよ。区別するな。テーブルとか、料理とか、車とか。そんなもの無いんだよ。
無いんだから。例えばテーブル、天板と脚に分けられる。その天板と脚は、今度はプラスチックと木材に分けられる。どんどん細かくしていったら、何も残らないじゃないか。料理だってそう。果物と、クリームと、葉っぱと、皿に分解できる。それらは砂糖と、卵と、牛乳と、果実と、種と、土と、水に分解できる。そうやってどんどん分解していくと、もともとあっった料理ってのなんか、無いってことになるだろう。車だってそう。エンジン、窓ガラス、タイヤ、ボディ、ハンドル、椅子・・。どんどんどんどん、どこまでもどこまでも分けられる。そうすると、もともとあった車なんてものは、我々があると思っている、ただの思い込みでしかないんだよ。
何もかも思い込みなんだ。この悲しみも、この怒りも、嬉しさも、喜びも。大きな視点で見れば、他の視点で見れば、見えている世界っていうのあガラッと変わるんだろう。親族が生きていれば嬉しいかもしれないけれど、社会、地球、宇宙っていう視点で見れば、人間が死ぬことになんの意味があるのだろう。ないんじゃないか。地球にとってみれば、幅を利かせている人間が一人死ぬことはもしかしたらいいことなのかもしれない。死んだ人にとってもいいことなのかもしれない。悲しいとか可哀想だとか、一方的に思っているけれど、それって思い込みでしかないんだぜ。
大丈夫、この呪文を唱えて。ただ言うだけでいいよ。言えば、心も無になれる。何も考えず、考えるってことをしようとせず、考えるとかっていう具体的なことなんかしなくて、無になれるよ。呪文を唱えて、無心になれれば、徐々に全てが一つに感じられるだろう。具体的な全てのものが、周りに溶けて抽象的になっていって、さらには全てが無になることを感じられるだろう。元から何もないんだよ。元々何もないんだよ。だからさあ、唱えよう。
ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソーギャーテー、ボージーソワカー。
ってな感じでしょうか。これを、日本全国で、人が死んだ時に歌っているんですね。
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