デカルトの自身の無さや強がりを解説してくれる良書〜デカルト「方法序説」を読む

2020.08.15 (土)

 

デカルトは数学が好きだった。デカルトは、数学の土台がしっかりした感が好きだったらしい。数学の確実性と明白性が、数学を他の学問、特に文系の学問との違いをハッキリとなすものだった。

 

 

たとえば、5+5=10だし、10+10=20である。

 

 

5+5=10というのは誰にでもわかる。もちろん、幼児なんかにはわからないのかもしれないけれど、ある程度の勉強を重ねれば必ず理解できるようになる。5+5=10というのは、世界中の人間が理解できるほどハッキリしている推論なのだ。

 

 

5+5=10が確実なのであれば、同じような計算の10+10=20も理解できるはずだ。同じように計算すればいいし、同じように数字を解けばいい。数学は、土台がしっかりとしていればその上にさらなる知識がまるで建築物をつくるように積み重なっていく。確実性と明白性が、デカルトが数学に惹かれた所以である。

 

 

「わたしは何よりも数学が好きだった。論拠の確実性と明証性のゆえである。しかしまだ、その本当の用途に気づいていなかった。数学が機械技術にしか役立っていないことを考え、数学の基礎はあれほど揺るぎなく堅固なのに、もっと高い学問が何もその上に築かれなかったのを意外に思った」(本文より引用)

 

 

こうしてデカルトは、数学のような確実性と明白性を、他の学問にも応用することを考えた。デカルト自身もキリスト教徒だったし、神学がすべてを席巻していたこの時代に、形而上学にこの確実性と明白性を応用しようと考えたことは自然な流れだったのかもしれない。

 

 

ここでデカルトは、後代に残る閃きに至ることになる。「考えている自分って存在しているじゃないか」「考えている自分は、そこにいなくては何事も考えられないじゃないか」と。

 

 

「(真理の探求においては)ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた」(本文より引用)

 

 

デカルトは確実で明白な考えがほしかった。数学において5+5=10、10+10=20と同じように、そこから広がりを得られるような、演繹的に「〇〇であるならば〜」のような〇〇に入るものを探し出したかった。

 

 

一番最初にある〇〇は何だろうか。一番確実で、一番ハッキリしていて、すべての考えの土台にふさわしい「何か」は何だろうと考えた。それを見つける為には、とりあえず片っ端から偽物を排除していって、最後に残ったものが、その「何か」だろう。

 

 

疑いえるものはすべて排除しよう。それは、考えにおける一番の土台を見つけるためである。感覚を疑い、推論を疑い、夢の幻想かもしれないと疑い、そのうえでも「あるじゃないか」と考えたのが、「わたしは考える」だったのだ。

 

 

自分の感覚は間違っているんじゃないかと考えることはできる。たとえば目の前にあるコーヒーを自分は「熱い」と感じるけれど、人によっては「それほど熱くない」あるいは「むしろ冷たい」と考える人もいるかもしれない。たとえば本を持った時に感じる重さも、人それぞれであって、自分は力が弱いほうだから人よりも本を重く感じるのかもしれない。感覚は信じられない。疑う余地がある。

 

 

推論だって信じれない。未来のことを予想するなんて、そんなものはあくまでも「予想」であって、確実なものではない。将来がどうなるかは、いくら予想しても100パーセントになることはない。

 

 

それよりも夢の幻想だ。夢の幻想だと考えて周りを見ると、夢の幻想だと思えないことはなにもない。自分の体も、机も、パソコンも、建物も、夢の幻想だと思えなくはない。

 

 

で、こうやってすべてを疑った後にデカルトは気づく。でもそうやってすべてを疑っている間でも、考えている自分はそこになきゃならない。考えている自分がいないとは考えられない。考えている自分は疑うことができない。

 

 

「このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない」(本文より引用)

 

 

 

で、この「コギト・エルゴ・スム(わたしは考える、ゆえに、わたしは存在する)」を土台にして、デカルトは神の存在証明に挑む。

 

 

自分を、疑いうる余地を持っている不確実な存在と考えるということは、完全性が前提にされている。完全なものを想像できるから、「不確実だ」とか「疑いうる」ことを想像できるのだ。ジグソーパズルを解こうとするのも、解いた先に欠けのない絵があると想像できるからだ。この完全性の概念はどこから来たのだろう。おそらく、完全性から与えられたものなのだ。だから、神(完全性)はいるのだ。

 

 

おそらくこの神の存在証明を読んでも納得しない人はいるだろう。というか、納得しない人がほとんどだろう。「ちょっと飛び過ぎじゃない?」と誰もが思うだろう。安心してほしい。デカルト自身もそう思っていたようだ。

 

 

面白いのは、負け惜しみともとれるような、もしかしたら自分も「ちょっと不確実かも‥」と思っているとわかるような一文が添えられていることだ。

 

 

「最後に、わたしが述べた理由によってもなお、神と自分の魂の存在を十分に納得しない人たちがあるるならば、そういう人たちに知ってほしいのは、かれらがおそらくそれよりも確かだと考えているその他のもののすべて‥が、もっと不確かであることだ」(本文より引用)

 

 

こんな文が添えられているということは、おそらくデカルト自身も、自分の神の存在証明が「他人からは理解されないだろうな」とか、あるいは「不確実かも‥」とわかっていたのだろう。

 

 

デカルトに言わせると、「三角形の角の和が180度になること」や「球のすべてが中心より等間隔にあること」と同じように、あるいはそれ以上に神の存在は確実なものらしいのだけれど、こんな負け惜しみですらデカルトらしい知的さが感じられる。

 

 

 

デカルトの方法序説を解説してくれる良書だった。方法序説と一緒で、この本もわかりやすい文章で書かれている。

 

 


 

 

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