我々は本当に自由なのか〜はじめての構造主義

2019.10.22 (火)

 

はたして我々は、自由に物事を考えているのだろうか。たとえば私はいま、こうしてMacBookのキーボードを打っている。この指の動きは、きちんと「このキーを打とう」「この文字を打とう」と考えて行われているのだろうか。そんなこともないような気がする。だって、一つ一つを考えながら打っているとしたら、こんなにも早くパパパッと打てるはずもないだろう。どこか「無意識」のうちに打っているような気がする。

 

 

で横にはコーヒーが置いてあるが、果たしてこれは、私が「飲もう」と思って飲もうとしているコーヒーだろうか。どうしてコーヒーなんかがここにあるのか。確かにさっき、私はコーヒーをカップに入れて用意してからパソコンを打ち始めたのだが、どうしてコーヒーなんかを持ってきたのだろう。そんなにのどが渇いていたのだろうか。そうではあるまい。べつにコーヒーなんかなくてもいいのだ。コーヒーなんかなくても文字は打てるのだ。なのにどうしてコーヒーなんか持ってきたのか。おそらく「無意識」に、「文章を打つときはコーヒーくらいあったほうが良いだろう」とでも思ったに違いないl

 

 

こんな風に我々は、今でこそこの「無意識」という言葉を当たり前に使っている。無意識という言葉を使われて「はあ? なにそれ?」と思うひとはあるまい。小学生ですら、悪いことをして怒られたときに「無意識なんだからしょうがねーじゃん」というような事を言うだろう。自分という存在があるにも関わらず、それとは別に行動の決定権を持っている存在があるのだ。

 

 

この考えは、実は新しいものなのだ。少なくとも日本では、戦後になって広がったものだ。精神学者のフロイトだったり、共産主義を唱えたカール・マルクスの考えがもとになったものだ。マルクスは、「歴史は資本主義から共産主義に向かって変わるもので、それは人の力ではあらがえない」という考えを持っていた。自分たちは、何事も自分で決めているように感じているが、実は世の中には、自分の力ではどうしようもないエネルギーが存在している。我々は自由に物事を考えているようで、じつはそのあらがえないエネルギーの中で自由に考えているに過ぎない。

 

 

囚人が監獄の中でいかに自由に振る舞おうと、所詮は監獄の中での話。食事の時間だって、寝る時間だって決められている。彼らがいかに自由に振る舞おうと、もっと大きな視点から見れば、全然自由に振る舞っていはいないのだ。

 

 

たとえばこの世は巨大な箱庭のようなもので、宇宙の彼方には宇宙人がいる。その宇宙人は、人類を観察しているのだ。人類を栽培して、どんな風に振る舞おうとしているのかチェックしているのだ。そんな宇宙人にとってみたら、人類が「我々は自由だ!」とシュプレヒコールをあげる姿はとても滑稽に思えるだろう。「人類ってなんにも知らないんだな。この宇宙が、彼らのすべてなんだろう」と、まるで我々が虫かごの中のカブトムシでも見るかのように観察している。我々は自由に物事を考えているようで、実は考えていないのではないか。どこか、あらかじめ決められた、見えない仕組みに従わされているだけなのではないか。それを「自由だ」と言っているだけなのではないか。

 

 

この仕組みのことを、「(見えない社会の)構造」という風にいうのだ。それで構造主義なのだろう。

 

 

自由に考えていそうで、実は全然自由じゃない。自由に物事を考えていそうで、実は全然自由に考えていない。自由に物事を決めていそうで、実は全然自由に決めていない。それが我々なのだ。

 

 

 

コーヒーを飲むこと一つとっても、これをすべて自分の意志でやっているなんて、そんなことはありえないだろう。コーヒーカップを寸分の狂いなく口の位置まで持ってきて。カップの中のコーヒーがこぼれないように、微妙な角度をつけてカップを傾ける。内容物がカップから口に流れるようにする。内容物を受ける口の方も、口元で内容物がこぼれないように、うまくカップの端に口の形を合わせる。その時に熱かったら皮膚が火傷をしてしまうので、熱さの許容範囲を確認しながら、内容物を受け入れなくてはならない。受け入れられるコーヒーの量は、口の中に収まる範囲である。大量に飲んでもダメ出し、少量でも面白くない。そんな微妙な加減を、腹の減り具合や喉の乾き具合、時間、書かねばならない文章の量。そんなものと相談をしながら決めなくてはらない。コーヒーを口が受け取ったら、今度はそれを喉に流さなくてはならない。コーヒーの味や香りを口の中で楽しんで、脳みそが快を感じる程に楽しんだら、喉に流すのだ。舌、口、唇、それぞれの筋肉の形状や緊張を整えながら、コーヒーを喉に流す。

 

 

大変な作業だ。これをすべて、自分の意志で自由にしているとはいえないだろう。やはり「無意識にやっている」としかsつめいできない。「どうして唇をその形にしたのですか?」「どうしてそのタイミング喉に流したのですか?」などと聞かれたら、「いや、なんとなく、無意識に」としか答えられないだろう。我々は、自由に決めて自由に行動しているようで、そうではないのだ。社会の見えない構造に縛られているのだ。

 


 

「素直さ」を考えるセミナーを定期的に開催しています。スケジュール・詳細はこちらをご覧ください。

 

自己中が思いやりに、
生真面目が寛容に、
怒りっぽさが優しさに、
そして非行が素直に変わります。

 

心よりお待ちしております。

[contact-form-7 id=”10255″ title=”セミナー申込みフォーム”]


 

30分の無料相談を承っています。子ども、非行、犯罪、警察対応、などのキーワードで気になりましたらご利用ください。基本はウェブ会議アプリを使ってのオンラインですが、電話や面談も対応できます。

 

モヤモヤ状態のあなたが、イキイキとする無料相談です。次の一歩を踏み出すために、お気軽にお問い合わせください。

 

下記お問い合わせフォームで「相談希望」である旨をお知らせ下さい。

[contact-form-7 id=”2700″ title=”お問い合わせ”]


 

プレゼントの無料小冊子を更新しました。「子どもの非行を防ぐための素直な頭のつくり方」です。

 

非行に走る子どもは自己中が多いです。頭が固く、自分の価値観に固執しています。周りの人間の価値観や考えを受け入れられず、自分を通そうとします。自分以外の価値観や考えがあること自体が、見えていないのです。自分が正しくて、自分以外の考えは間違いだという先入観から抜けられない状態です。

 

子どもは周りから吸収する度合いが強いので、子どもの成長は周りの大人次第の側面があります。「周りの大人が自己中から脱し、素直な頭を持つ事で、接する子どもにも好影響を与えよう」というのが、この小冊子の狙いになります。

 

頭の柔軟性があり、状況や相手に応じて変化できる事。自分だけでなく、相手の考えも認める事ができる事。一つ上から全体を俯瞰できる事。そんな「素直な頭」をつくるための気づきを、この小冊子から得ていただければと思います。

[contact-form-7 id=”4057″ title=”小冊子ダウンロード”]


 

電子書籍で本を出すことになりました。ぜひ多くの人に読んでいただきたいと思います。タイトルは、「人に優しくなれる発想法」です。想定されると読者は、主に子ども相手にイライラしてしまうお父さんお母さんですが、仕事やプライベートでのイライラする人間関係が気になっている方にも読んで欲しい内容となっています。

 

 

警察官が、イライラの感情という素朴で身近な、ともすれば大きくなりがちな分野で語ることはないのではないでしょうか。というのも、警察官は感情をなくして機械的で形式的な仕事をする人間だし、そうであることが求められがちな職業だからです。この本では、元々警察官をやっていた人間が、その時の経験を元に、実は警察官に身近な感情であるイライラについて、そのイライラをなくす考え方を紹介します。

 

 

実は、警察官にとってイライラというのは、最も身近な感情です。というのは、警察官がイライラの矢面に立つ仕事だからです。

 

続きはこちらへ

 

「人に優しくなれる発想法」購入ページへ

▼シェアをお願い致します!▼

関連する投稿

現在の記事: 我々は本当に自由なのか〜はじめての構造主義

お問い合わせ・ご相談はこちら

メールでのお問い合わせ

contact@konokoe.com

フォームからのお問い合わせ

お問い合わせフォーム »

コラムテーマ一覧

過去のコラム

主なコラム

⇑ PAGE TOP