おじゃる丸のカズマは世の中をどう見ているのか〜図解雑学 構造主義
おじゃる丸に、カズマという小学生がいる。おじゃる丸というのは、NHKで放送している(していた?)アニメである。おじゃる丸という平安時代(?)の貴族が現代にタイムスリップしてきて、小学生のカズマと一緒に生活するという、ほのぼのとした雰囲気のアニメだ。
主人公のおじゃる丸と一緒に生活していて、おじゃる丸に振り回される役目のカズマであるが、面白い趣味を持っている。石が好きで集めるのだ。下校途中に石を見つけてきては、「このすべすべ感がいい」とか「形がかわいい」とか言う始末。
僕ら、というか大抵の人には、石は石でしかないだろう。たしかに僕らの周りには、石が無数に存在している。河原にでも行けば、普段は見られない石がたくさんあるので「面白い」という気も起きるが、なにもわざわざ河原までいかなくても、じつは身近に多種多様な石は転がっているのだ。アスファルトに覆われた車道の上にも小石は落ちていて、車がビュンビュン走るたびに吹き飛ばされている。家の敷地内、端っこの方にも石は落ちていて、「注意でもして見ようとしなければ、一生その石に気づくこともないだろうな」というレベルの存在感のなさである。雨が降れば道端の石も濡れるし、晴れの日が続けば石だって乾くだろう。そんな風に、色々な石が、実は我々の周りには存在しているのである。転がっている石、存在感なく静かにしている石、濡れた石、乾いた石。他にも三角形、丸、四角形。ツルツル、ザラザラ、ゴツゴツ。大きい、小さい、微小。重い、軽い、もっと軽い。など、色々な種類の石が存在しているのだ。
が、僕らはそんな石を普段、気にしてはいない。途上の中で、石に注意を払って、それぞれの石に気を配ることなどしていないのだ。言われれば確かに色々な石があって、それぞれに個性があるのもわからないではないが、「だからなんなの?」というレベルであろう。普段、石を、我々は見ていない。気にしていない。あることすらわかっていない。そんな僕らにとって、果たして石は「そこに存在している」と言えるのだろうか。僕らの世界に「石はある」と言えるのだろうか。
ベルセルクという漫画がある。中世ヨーロッパ風の世界を舞台にして、魔法や魔物が入り乱れる闘いものだ。この漫画に、ガニシュカ大帝というのが出てきた。ガニシュカ大帝は、転生して超巨大な魔物になったので、歩くたびに人間が踏み潰された。「おお、足元から赤い花が咲いた」ようなことを言うのだ。魔物になったガニシュカ大帝に、人間は見えていないのだ。が僕らにとって「そこに人間がいるのかどうか」は大きな問題であるが、ガニシュカ大帝にとっては「いない」も同然なのだ。
「石でも人間でも、そこに存在しているから、我々は『ある』と思う」のは、じつは間違いなのだ。存在しているものを「ある」と認識するのではなく、「ある」と認識するから存在するのだ。
だから、もしも世の中から人間がいなくなったら、これまで人間が「必要だ」と思って作ってきた車や、建物や、街は、「ない」ということになってしまうのだろう。たとえ人間がいなくなったとしても、人間がそれまでにつくってきた車や建物や街は、そこにあり続けるように感じるが、実はそうではないのだ。
カズマにとって認識できる石を、我々は認識できないように。我々が認識できる人間を、ガニシュカ大帝が認識できないように。そのものを認識できる、すなわち「価値がある」と、他と区別できる人がいてこそ、それは存在するのであって、もしも区別できる人がいなくなったら、それは存在しないのである。
世の中は、元々は混沌とした、なんの区別もない世界なのかもしれない。ごちゃごちゃとした子どものおもちゃ箱、グツグツと煮立っている巨大な鍋、どこまでも広がっている粘土の塊。そんものが、本来のこの世の見方なのかもしれない。けれど、実際に僕らはスマートフォンで話をし、ジュースをコップで飲み、本を読み、自分にとって必要なことをしている。世界から必要なことをピックアップしている。車を見れば「車だ」と思うし、建物を見れば「建物だ」と思うし、本を見れば「本だ」と思う。これは、僕らが必要だと感じているから、そのものに、他と区別するだけの「価値」があると思っているから、区別できるのだ。そこに「ある」から、僕らは認識できるのではなく、僕らが認識するからそこに「ある」のだ。ソシュールの言語感とは、こういうものなのだ。
僕ら日本人にとって、RとLと区別はできないが、欧米人にとってはできる。日本人には「らりるれろ」しかいないが、欧米人にはさらにRとLに分けられるのであって、それは欧米人が日常の中でRとLの区別が必要だからである。区別するだけの価値観を、欧米人は感じているから、「ある」のだ。日本人にとっては、必要ないから意識していない。RとLの区別なんて、日本人にとってはそもそも「ない」のだ。
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